稀に見るヘタクソな自分夜話

人間関係、仕事、恋愛、生き方など、通常の人間が本来持ち得るであろう能力の一切が欠落している人間(自分)の好き勝手な発言を収納した謂わば坩堝です。一人前に何か言ってます。白い目で見てください。

「自信がない」は「自信を付けたくない」の裏返し

誹謗中傷の原動力はだいたい「嫉妬」で出来ている

しかしながら本当にそうだと思うことが多々ある。

やりたいことはあるが、やろうとはしない。それは何故かと聞けば―――

自信がないから

と応える。

 

その「自信」とはなんだろうか。それは、その行動を行うにあたっての気迫や肯定意識を指すのか。

人と比較して優位性を実感する情動なのか。

 

多くの場合、人はやりたくないことをやらずに過ごし、やりたいことを胸のどこかに残して死ぬ。

それは正常かどうかは分からないが、ごく一般的な現象だ。

 

そしてやりたいことをやって活き活きとしている人間をひどく嫉妬して生きる。一度成功している人間が転ぼうものなら群がって、餃子の王〇もびっくりの早さで集団リンチを加えるのだ。

 

それはもう中世ヨーロッパの断頭そのもの。ギロチン*1にかけられる人間の周りを人が囲み、歓声を上げ、挙句の果てには観衆向けの売り子まで出てきたというから驚きだ。

 

人は自分よりも低い人間を見て安心したい。最低でも自分と同じ水準の人間を傍に置いておきたい。

自分より上の人間がいるなどと考えたくもないし、ましてやそれを直視する勇気は毛ほどもない。

あまりにも自分の世界とかけ離れている人間にはどういうわけか憧憬の念を持てるにも拘わらず、近しいと感じる人間に対しての嫉妬心は異常と思えるほどに濃い。それが人間なのだ。

 

そうした人間を数多く見てきて思ったのが、嫉妬する人間は誰しも絶対的自己評価が高い。

 

僕が思うに、自己評価にも

 

相対的自己評価

絶対的自己評価

 

がある。

 

「相対的自己評価」は書いて字のごとく、相手と自分を比較して自分が上か下か、出来ているか出来ていないかを測る評価基準である。

 

かえって、

 

「絶対的自己評価」の方は比較対象を一切持たず自分を評価する基準だ。

 

何の根拠もないので、どうしてそういった評価になっているのか?は第三者から見えてこない。

 

大した勉強も努力もせず、「おれは出来る!」「おれはいつかビックになる」という手垢の付いた無根拠自信満々発言も、とくに何の比較対象も設けず自分の中で醸成していった自信の化け物が暴走した結果なのだろう。

 

もちろん絶対的自己評価の低い人間もいる。

 

「何か分からないけどダメなんですよ自分・・・」と意味不明な低評価を下していたり、「自分は社会から取り残されている」と複数人の友達に相談していたり(⇦取り残されてねーじゃん)、現状と思考の間に大きな亀裂が走っているのだ。

 

少し考えればわかることも分からなくなり、他人には理解不能な評価を自分に下すのは見ていて非常に興味深い。

 

「相対的自己評価」の低い人間も比較対象をかなり高めに設定しているがゆえに、自己嫌悪や自暴自棄に陥る傾向がみられる。

 

段階的成長ではなく、飛躍的成長を望むが故の比較対象を誤ってしまうのだろう。

 

嫉妬する人間はほとんど成功しない。自分の成長で克服するのではなく、他人を妨害して相手の評価を落とし、自分より下に見ることを常としているからだ。

 

嫉妬するということは自分が上でなければならないという源をもっているのだから、そこに帰結するのはまま当然だろう。

 

ただ、南海キャンディーズの山ちゃん(元足軽エンペラー)は非常に稀有な例であると思う。

自らを「嫉妬の化け物」と評し相手を妨害しながら自分も着々と実力をつけていっている様に、相対的自己評価と絶対的自己評価の絶妙なバランスを感じた。

 

彼は面白い漫才には純粋に「面白い」というが、だからこそ嫉妬し、妨害するのだという。そして相手が失敗すると手を叩いて喜ぶ。

 

でも自分も成長を怠らない。

 

片面だけを見ればクズだが、そこで終わらずグングンと地位を上げ自分の立ち位置を確立していった彼の努力は凄まじい。

 

延いては自分の嫉妬をネタに出来るほど人間性も成長している。

この点をおいて「稀な存在」と言っていいのではないだろうか。

 

どう自信がないのか?

先ほど相対的自己評価と絶対的自己評価の違いを説明した。

 

嫉妬心が芽吹く人間はどちらの評価が低いのか。多くは相対的評価が低い、と僕は考える。

 

自分は出来ていると思うが、いったん人と比べたときに全くできていない。出来ている気配すらない。

 

その現実を突きつけられると心がポキっと折れてしまう。

 

だから現実は見ずに絶対的自己評価の殻に閉じこもって常に自分を肯定し続けるのだ。

 

少しでもちやほやされている人間が居ようものなら、それを叩き罵り、卑屈をいう。

 

そうしているうちは自分が優位に立てると錯覚できるからだ。

 

もやしのように出てくる成功者を次から次へと自分の心の中で捻り潰し、認められない不満や叶えられない夢への鬱憤を晴らしてゆく。

 

それも人生であるから全くもって好きにすればよい、と純粋に僕は思う。

 

自信を付けたくないとは?

人を誹る、罵る、蔑む、貶す人間の根本には嫉妬があり、それは相対的自己評価が低いことへの裏返し行為だとここまで説いてきた。

では、そういった行為をしなくて済むにはどうするか。

 

小さい成功を積み重ねて自信を付ければよいだけである。

 

では何故しないのか?

 

彼らは知っている。自信をつけ、日の当たる場所へ出たら最後、陰湿な翳から過去自分がしてきたような攻撃が飛んでくることを。

 

自信を付けたいが、付けたくない。この相反した感情は自信を付けた人間の先に何が待っているかを知っているからこそ起こり得る。

 

相対的自己評価など低くていい。そのまま安全地帯から集中砲火を食らわせることのできる人間である方が楽だから、そのぬるま湯につかり続けてしまう。

 

混濁する葛藤と日々闘いながら、今日もまた学校や職場やネットのどこかで彼ら/彼女らは人を貶めて鬱憤を解消しているだ。

*1:一部の断頭台はハリファックスと呼ばれた